下り龍

一部の方々の悩みの種である下り龍こと私が日々の鬱憤や書いた小説の小話などを独りでに語る何とも悲しくつまらないブログ

提灯 (前編)

 お母さん、今日お兄ちゃんに会ったよ。

 何気なく言ったその言葉は誰の耳にも届かず言霊はみるみると縮み、消えた。
 私は当時まだ幼く、自らが発した言葉の意味を到底理解していなかったのだろう。
 母が私の言葉に返事をしなかったのはあの日だけで、私と一度目を合わせたら顔を覆って泣いてしまった。
 そこで私は初めて『この話はタブーだ』って気づいたんだっけ。

 

 懐かしい夢を見た。久しぶりにあの日のことを思い出した気がする。忘れたことなんて無かったのに不思議な気持ちだ。
 眠気に閉じかける瞼を擦りながら階段を降り、朝ごはんを作る母に挨拶をしながら毎日の習慣になりつつある和室へ足を運ぶ。
 私の背丈より少しだけ小さい仏壇の前に座り手を合わせる。瞼を閉じて今までの家族の思い出に肩まで浸かる。
 この和室も彼の部屋だった、とか、仏壇の大きさも当時の彼の身長と同じ、だとか。
 まあ、全て父から聞いた話なんだけど。

 彼……兄は幼い頃トラックに轢かれて亡くなった。父はそのトラックの運転手で、息子の血肉をフロントガラス越しに浴びて精神を病み、数年後に玉突き事故に巻き込まれて亡くなった。

 母はアルツハイマー病で、理解者である家族二人を亡くして更に無理をするようになったと泣きながら祖母が話していた。

 私と兄は歳が離れていて、私が産まれる頃には既にこの世を去っていた。優しい父だって陰鬱な表情しか見たことがない。テレビに映った火達磨のように燃え盛る車と父の小難しい名前は他の車よりも名前よりも明るく、眩しく、鮮明に見えた。

 

「今年は何に乗って来るんだろうね」
 母はこの季節になると必ず同じ言葉を言う。
「お父さんとバイクでツーリングかな。お兄ちゃんもそろそろ免許取れる歳でしょ」
「そうかもねぇ」
 仏壇の横の提灯は音もなくくるくると回り続ける。昔から提灯の中を覗くのが好きできらきらと回るものを触ろうとしていつも怒られていた。
 きっと覗くのが好きな理由は綺麗な柄よりもその温かさなんだろう。父の手の温かさや背中の温かさと同じだから。

 夕焼けに焦がされる様に電柱やそれに留まる蝉が影を黒く濃くする。
 空には一筋の煙が立ち上る。一瞥して視線を下げるとパチパチと火が木に燃え移る音がする。名前の知らない木の渋い臭いが鼻腔に充満した。


 木屑の大半が黒い塵となる頃にふと生暖かい風が私を通り過ぎる。
「お母さん、お父さん達帰ってきた」
「そう。家に戻ろうか」
 母は大きな音を立てて家のドアを閉める。私は迎え火の木が全て焼き終わるのをじっと見て、一人納得して家に入った。